始皇帝の祖先である春秋時代の秦の君主は、死を迎えると地下に埋葬され、同時に近臣の者も一緒に殺されて埋められた。始皇帝よりも300年ほど前の景公(けいこう)の墓では、166もの殉葬者の木棺が墓室の上に並べられていた。
 殉葬の習俗は、秦の東方の人々からは西戎(せいじゅう)文化として非難された。戦国時代に入り、秦の君主は殉葬を禁じた。殉葬が非人道的な習俗であり、その代わりに俑(よう)が作られたとするのがわかりやすいが、実際には殉葬の時代にも俑は作られていた。そのため、殉葬が先か俑が先かを判断することは難しい。孔子は人間をかたどった俑などを作るから殉葬が始まったとして俑を批判した。いずれにしても、俑が死者に寄り添うものであることは確かである。
 始皇帝は自分に従った兵士と馬を殉葬することはなく、代替物として土を焼いて作った等身大の兵馬俑を埋めた。その数は8000体と推定される。 (鶴間和幸・学習院大名誉教授)